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加藤 清正(1562~1611)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で肥後熊本藩初代藩主です。

彼は豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人です。

秀吉に従って数々の武功を挙げ、肥後北半国の大名となり秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。

築城の名手といわれ熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わっています。

更に彼は土木の神様とも呼ばれ、白川、菊池川、緑川、球磨川における治水・利水事業を図り、今日の熊本の繁栄を築き上げています。

清正の死因は『当代記』の2年後に梅毒(当時は唐瘡と呼ばれた)で死んだ浅野幸長の項に、彼と同様に好色故の「虚ノ病」(腎虚(花柳病)か)とされている。

その一方で家康またはその一派による毒殺説もあります。

特に暗殺説の中でも二条城会見での料理による毒殺、毒饅頭による毒殺説が世間に広まっています。

風景印は熊本御幸郵便局(〒861-4172熊本県熊本市南区御幸笛田3-18-10)のもので、1999年1月1日使用開始され、清正堤と加藤清正像が描かれています。


加藤清正風景印.1999


風景印は熊本北帯山郵便局(〒862-0924熊本県熊本市中央区帯山4-43-1)のもので、2020年7月3日使用開始され、熊本市を象徴する「熊本城」、築城した城主「加藤清正」の像を向かい合わせに配し、城の麓には、肥後国熊本藩6代目藩主細川重賢が『昆虫胥化図』に観察記録を残した蝶である「ツマグロヒョウモン」、及びその食草であり地域の愛好家に育てられている「ヒゴスミレ」が描かれています。

加藤清正.風景印



2つの風景印とも長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)を冠った清正公が描かれています。