日本で梅毒が初めて記録されたのは1512年のことで、歌人・三条西実隆(1455~1537)の『再昌草』に記されています。

この頃は梅毒の治療薬もなく日本国内では昭和初期まで猛威を振るていました。

"自惚れと瘡気(かさけ)の無い者はない"と表現されているように、上は大名から下々の町人に至るまで梅毒は大流行していました。

1940年代以降ペニシリンを中心とする抗生物質による治療が行われるようになり、梅毒はほぼ完治する病気となり、ほぼ根絶されかけましたが2003年から増加傾向となり2016年現在日本国内では大流行しています。

日本国内に梅毒が入り込み現在までに多くの著名人が梅毒に悩まされそして、命を失っています。

今回は豊臣秀吉の名軍師と言われた黒田官兵衛(1546~1604)を取り上げてみました。

彼は1604年に病没しますがその死因は梅毒が有力視されています。

黒田官兵衛は、荒木村重によって有岡城に監禁され足が不自由になった原因は梅毒性骨髄炎、そして頭に腫れ物ができて頭巾で隠していたのは、梅毒第三期のゴム腫の可能性が高く、そして晩年精神錯乱状態だったのは梅毒第四期の脳障害によるものであると医史学者は推測しています。

豊臣秀吉は、晩年「黒田の瘡天窓(かさあたま/梅毒で髪の抜けた頭)は何にとも心を許し難きものなり」と言っています。

切手は2014年日本発行のオリジナルフレーム切手「軍師 黒田官兵衛ゆかりの街 八幡西区」で、左に頭巾を被った黒田官兵衛が描かれています。


黒田官兵衛.2014

切手は2013年日本発行のオリジナルフレーム切手「中津で天下の夢を見た黒田官兵衛」で、甲冑をつけた黒田官兵衛が描かれています。


黒田官兵衛-2


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