山極勝三郎(1863~1930)は、1915年にタールをウサギの耳に塗り続けて、人工的にガンを発生させることに成功しましたが、欧米では全く相手にされず信用されませんでした。

当時、癌の発生原因は不明であり、主たる説に「刺激説」「素因説」などが存在していましたが、山極は煙突掃除夫に皮膚癌の罹患が多いことに着目して刺激説を採り、実験を開始しました。

その実験はひたすらウサギの耳にコールタールを毎日塗り続けるという地道なもので、すでに多くの学者が失敗していたものでした。

しかし、山極は、助手の市川厚一(1888~1948)と共に、実に3年以上に渡って反復実験を行い、1915年ついに世界で初めて人工癌の発生に成功します。

山極勝三郎と市川厚一は、ウサギの耳にコールタールを塗布し続け、1915年に世界初の人工癌発生に成功しましたが、彼ら人工癌の発生に先駆けて、デンマークのヨハネス・フィビゲル(1867~1928)が寄生虫による人工癌発生に成功したと発表していました。

当時からフィビゲルの研究は一般的なものではなく、山極の研究こそが癌研究の発展に貢献するものではないかという意見が存在していたにもかかわらず、1926年にはフィビゲルにノーベル生理学・医学賞が与えられてしまいました。

後にこの研究は誤りであったことが受賞後に判明し、ノーベル賞の三大過誤のひとつされて言います。

その後、1952年アメリカのヒッチコックとベルは、フィビゲルの観察した病変はビタミンA欠乏症のラットに寄生虫が感染したさいにおこる変化であり、癌ではないことを証明しました。

フィビゲルの残した標本を再検討しても、癌とよべるものではなく、彼の診断基準自体に誤りがあったことが判明した。現在、人工癌の発生、それによる癌の研究は山極の業績によると広く認められています。

当時の選考委員のひとり、スウェーデンのフォルケ・ヘンシェンは、1966年10月に東京で開かれた国際癌会議の際に行った講演で、「私はノーベル医学賞を山極博士に贈ることを強力に提唱したものです。不幸にして力足らず、実現しなかったことは日本国民のみなさんに申しわけがない」と述べ当時の選考委員のミスを悔やんだと言われています。

更に、選考委員会が開かれた際に「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」という発言や、同様の議論が堂々と為されていたことも明かしています。

山極が人工癌発生の成功による業績によってもノーベル賞を受賞できなかったことは、「ノーベル賞の陰の部分」のひとつと言われています。

現在の人工癌の発生、それによる癌の研究は山際勝三郎の業績に拠ると言われています。

山極博士の墓は、東京の谷中の共同墓地にありますが、その偉業をたたえる碑と胸像は上田城跡公園に、胸像は上田市立第三中学校にも建てられています。

残念なことは、世界で初の「刺激による発ガン」を証明した山極、市川の業績を讃える切手は、2020年現在どこの国からも発行されていません。

この偉大な研究者を生み、育んだ日本国こそ世界に先駆けて両者の業績を称える切手を発行すべきと考えます。

今回紹介するのは、1999年に開催された第25回日本医学会総会記念に発行された記念切手に、押印された東京中央局の小型印で、山極勝三郎の肖像と共に彼の有名な言葉「癌出来つ意気昂然と二歩三歩」が刻まれています。

山際