トーゴ切手が隠すパンデミックの「誤解」
そこに描かれているのは、顕微鏡を覗く一人の科学者、ヨハン・フルティン博士(1924~2022)と、丸い細菌のようなモチーフ。この細菌は「インフルエンザ菌(Haemophilus influenzae)」を表しているとされます。
一見、パンデミック研究の偉業を称える美しい切手ですが、この組み合わせには、科学史における**「世紀の誤解」と、それを解き明かした一人の科学者の「執念の物語」**が凝縮されているのです。
1. 「インフルエンザ菌」という名前の皮肉な誤解
「インフルエンザ」という病気の原因が細菌だと思われていた時代があったことをご存知でしょうか?
1892年、ドイツの医師リチャード・ファイファー(1858~1945)が、インフルエンザ患者の喀痰からある細菌を発見し、これが病気の原因だと信じ、**「インフルエンザ菌」**と名付けました。
※北里柴三郎(1853~1931)と緒方正規(1853~1919)は、1892年のインフルエンザ流行時に日本で患者の検査体を調査し、北里らは、ファイファーが発見したインフルエンザ菌が見つかった全ての患者から検出されないことを報告し、「インフルエンザの本当の原因は別にあるのでは」と疑問を呈しました※
※北里柴三郎の研究は、インフルエンザ菌がインフルエンザの直接の原因ではない可能性を示唆した先駆ものでした。
その後、1930年代にインフルエンザの本当の原因がウイルスであることが判明し、北里の指摘が正しかったことが証明されることになります。
1918年のスペイン風邪パンデミックでも、多くの患者からこの細菌が検出されたため、多くの医師がこれを病原体だと誤解しました。
現代ウイルス学では、インフルエンザの真の原因はインフルエンザウイルスであることが確定しています。
インフルエンザ菌は、ウイルス感染後に抵抗力が落ちた肺に二次感染を引き起こし、肺炎を重症化させる**「悪玉脇役」**だったのです。
切手に描かれたインフルエンザ菌は、当時の科学者たちが真犯人だと信じていた、しかし実際は誤った名前をつけられた細菌の象徴なのです。
2. 執念の科学者:ヨハン・フルティン博士の挑戦
トーゴ切手のもう一人の主役、ヨハン・フルティン博士は、この「世紀の誤解」に終止符を打った人物です。
フルティン博士は、真の犯人である1918年型インフルエンザウイルスの特定に、人生を捧げました。
なぜなら、パンデミックの原因を特定し、その性質を知ることが、未来のパンデミック対策に不可欠だと知っていたからです。
博士は若き日からウイルスの分離を試みましたが、当時は技術的に困難でした。
にも関わらず博士は諦めずウイルスが凍結保存されている可能性に目をつけ彼が向かった先は、1918年のパンデミックで集落ごと犠牲となったアラスカの永久凍土でした。
1997年、彼は永久凍土に埋葬されていた女性の遺体から、ついに1918年型インフルエンザウイルスの遺伝子断片を分離することに成功しました。
この成果が、後にウイルスの全遺伝子情報(ゲノム)解読へとつながる礎となりました。
インフルエンザ菌に名を奪われていた真の病原体—インフルエンザウイルス—の全貌を、フルティン博士は文字通り**「掘り起こした」**のです。
トーゴの記念切手は、次のような対照的な関係を私たちに示しています。
誤解された犯人: 「インフルエンザ菌」(細菌)
真の犯人: インフルエンザウイルス
真実を明らかにした者: ヨハン・フルティン博士
切手にインフルエンザ菌が描かれたのは、おそらく1918年のパンデミックの**「歴史的な背景」**を強調するためでしょう。
しかし、フルティン博士が隣に描かれていることで、「誤解」と「真実の解明」という、科学史のドラマが際立ちます。
過去のパンデミックから学ぶことは、病原体を特定する科学の重要性だけでなく、「今信じられている常識が、数十年後には誤解かもしれない」という謙虚な姿勢です。
フルティン博士の執念の研究は、未来のパンデミックへの備えにおいて、常に真の病原体に焦点を当て続けることの重要性を、私たちに教えてくれています。
この切手は、単なる記念品ではなく、科学の進歩と歴史の教訓が詰まった、奥深い一枚だと言えるでしょう。



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