デジデリウス・エラスムス(1466~1536)は、ネーデルラント出身の人文主義者、カトリック司祭、神学者、哲学者で"ロッテルダムのエラスムス"とも呼ばれています。

彼が1511年に出版した『痴愚神礼讃』(ちぐしんらいさん)は、特に有名で人間社会の馬鹿馬鹿しさや繰り広げられる愚行を饒舌に風刺した作品を発表しています。

※【痴愚神礼讃 Moriae encomium】は【愚神礼讃】とも訳されています※

痴愚の女神モリアー(モリアエ)が聴衆を前に大演説会を開き軽妙洒脱な語り口で王侯貴族や聖職者・神学者・文法学者・哲学者ら権威者を徹底的にこき下ろします。

宗教改革の時代を生きたエラスムスは「カトリック教会を批判した人文主義者」と表現されますが、実際はローマ教皇庁を含めカトリック教会内に知己が多く、生涯を通してカトリック教会に対して忠実であり、カトリック教会の諸問題を批判しながらも中道を標榜してプロテスタント側に身を投じることはありませんでした。

また彼は人文主義的立場から宗教改革の精神に同調しますが、マルティン・ルター(1483~1546)の教皇・教会批判には反対しています。

ルネサンス時代のヨーロッパを代表するエラスムスなどの哲学者は、梅毒を敵視し、熱心な梅毒根絶論者として知られました。

「結婚前に梅毒検査をするべき。夫婦どちらかが性病なら離婚の申し立てとして十分」「最初の梅毒患者さえ火炙りにしていたらこの世の平和は守れたものを!」などと強めの発言をしていたエラスムスですが、1928年、彼の遺体が発掘された時、本人も性病(おそらく梅毒)に苦しんでいたことが身体的特徴から明らかになっています。

エラスムスがいつ、どのように梅毒に感染したのかは定かではありませんが、様々な説がありますが、1511年にイギリスを訪れた際に感染した可能性が高いと考えられています。

当時、イギリスでは梅毒が急速に蔓延しており、エラスムスはそのような環境の中で病に罹患した可能性があります。

エラスムスは梅毒に感染後、長年にわたって苦痛に耐えながら闘病生活を送りながら彼の書簡には、症状の苦しみや治療法を求める訴えが数多く残されています。

エラスムスは様々な民間療法を試したり、医師の治療を受けたりしましたが、完全な治癒には至らず、1536年に69歳で亡くなるまで梅毒に苦しめられました。

【エラスムスの著作と梅毒】

エラスムスは自身の経験を元に、梅毒に関する著作も残していて、代表的なものは、1526年に出版された「Stultitiae Laus(愚行礼賛)」です。

この風刺作品の中で、エラスムスは梅毒を「神の罰」として描き、当時の社会における性道徳の乱れを激しく批判しています。

エラスムス自身梅毒に苦しみながらも、生涯を通じて学問と思想に貢献した人物として評価されていて、彼の著作は、当時のヨーロッパ社会の様相を生き生きと描き出しており、現在でも歴史研究において貴重な資料となっています。


切手は1969年オランダ発行の「エラスムス生誕500年記念切手」で、エラスムスが描かれています。



エラスムス.オランダ.1969


切手は1967年ベルギー発行の「エラスムス「愚行の賞賛」切手」で、エラスムス「愚行の賞賛」が描かれています。



1967年ベルギー発行の「エラスムス「愚行の賞賛」切手-1


1967年ベルギー発行の「エラスムス「愚行の賞賛」切手」-2