203高地の戦いは、日露戦争中の1904年8月19日から1905年1月1日にかけて、遼東半島の旅順要塞周辺で行われた攻防戦で、第1次旅順総攻撃(1904年8月19日~25日)・第2次旅順総攻撃(1904年10月26日~30日)でも攻略できず、第3次旅順総攻撃(1905年1月1日)において日本軍は、これまでの攻撃の経験を活かし、周到な準備をして攻撃に臨み203高地には、第7師団が正面攻撃を行い、第3師団が側面攻撃を行い激しい戦闘の末日本軍はついに203高地を占領することに成功します。
日露戦争での203高地の戦いで、司令官の乃木希典は日本側の戦死者数約15,400名、戦傷者数約44,000名を出しこのことから乃木大将は無能な司令官とされていますが、果たしてそうだったのでしょうか。
乃木希典(1849~1912)に対する批判は国民の間にも起こり、東京の乃木邸は投石を受けたり、乃木邸に向かって大声で乃木を非難する者が現れたりし、乃木の辞職や切腹を勧告する手紙が2,400通も届けられたとあり、司馬遼太郎(1923~1996)の著書「坂の上の雲」でも幕下をまともに扱えない神棚におかれた人物がごとき扱いされています。
日露戦争で多くの犠牲者を出した際には「愚将」との批判が渦巻きますが、乃木が戦場で長男と次男の二人を相次いで亡くしたことが世間に知れると、「一人息子と泣いてはならぬ。二人亡くした人もある」との俗謡まで流行り、乃木への批判がぴたりと止んだと言われています。
会見に先立ち、明治天皇(1852~1912)は、山縣有朋(1838~1922)を通じ、乃木に対しステッセルが祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう命じられています。
これを受けて乃木は、ステッセルに対して極めて紳士的に接し、一般的には降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木はステッセルに帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けたとされています。
乃木は従軍記者たちの再三再四の要求にもかかわらず会見写真は一枚しか撮影させず、ステッセルらロシア軍人の名誉を重んじた。
『ステッセルに失礼ではないか
後々まで恥を残すような写真を撮らせることは日本の武士道が許さぬ』
と言ったとされています。
乃木大将は日露戦争終結を復命書を読み上げるうち、自責の念の為に涙声となり乃木は明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上するも天皇は、『乃木の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ、』という趣旨のことを述べられたとされています。
乃木大将が指揮した旅順攻囲戦は、日露戦争における最激戦であったため、彼はは日露戦争を代表する将軍と評価され、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置も賞賛の対象となり、特に水師営の会見におけるステッセルへの処遇については世界的に評価されることになります。
これらのことから乃木大将に対しては世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木を英雄的に描いた挿絵を掲載しています。
また子供の名前や発足した会の名称に「乃木」の名や乃木が占領した「旅順」(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発したことに加えて乃木に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニアおよびイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与されます。
1912年(大正元年)9月13日、明治天皇の大喪の礼が行われた日の20時頃、乃木大将は妻・静子とともに自刃して果てます。
乃木大将の訃報が新聞で報道されると、多くの日本国民が悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者も多数見られ、乃木大将を慕っていた裕仁親王(後の昭和天皇)は乃木が自刃したことを聞くと涙を浮かべ、『ああ、残念なことである』と述べられて大きくため息をつかれたそうです。
乃木大将の訃報は、日本国内にとどまらず、欧米の新聞においても多数報道され特に、ニューヨーク・タイムズには、日露戦争の従軍記者リチャード・バリーによる長文の伝記と乃木が詠んだ漢詩が2面にわたって掲載されました。
日露戦争において「難攻不落」と謳われた旅順要塞を攻略したことから、第一艦隊兼連合艦隊司令長官として日本海海戦などを指揮した東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、その人となりから「聖将」と呼ばれながらも旅順要塞攻略に際して多大な犠牲を生じたことや、明治天皇が崩御した際に殉死したことなどについて、司馬遼太郎等により批判されているのも事実です。
司馬遼太郎は著書『坂の上の雲』『殉死』において、乃木大将を「愚将」と評価した。
しかし他方で司馬遼太郎らに対する反論や、乃木は名将であったとする主張など、批判と相反して乃木を肯定的に見る意見も多数存在するのも事実です。
日露戦争の際、米国からの従軍記者として乃木大将に身近に接したスタンレー・ウォシュバン(1878~1950)による本書は、乃木大将の"人となり"を描くことを主眼としていますが(原題は"Nogi: A Great Man Against A Background Of War"(1913))、乃木という人物を通してみた日本人論にもなっています。
乃木と行動を共にした若き米国人従軍記者のウォッシュバーンは、乃木を“Father Nogi”と呼び、乃木を人情が美しく、武士道を体現した立派な軍人として描いた本を出版する。タイトルは「皇国日本」でもなく、「日本陸軍」でもなく、「Nogi」。海外の軍人の間で有名になり、GHQ司令官ダグラス・マッカーサーの父アーサー・マッカーサーもその著作に胸を打たれたという。また、父アーサーは旅順要塞戦で観戦武官として乃木に間近に接したこともあり、息子に「武士道の具現者たる乃木のごとき軍人たれ」と常々言い聞かせている。
その息子、ダグラスは第二次大戦後、日本に着任し、向かったのが乃木神社で、彼が着任した翌年、乃木邸に植樹したアメリカ・ハナミズキは、今では邸内で大きく枝を伸ばしている。
切手は1937年日本発行の「第1次昭和切手」の中の一枚で、乃木大将が描かれています。
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