マルコ・ポーロ(1254~1324)は、ヴェネツィア共和国の商人で、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』を口述したとされている冒険家です。

『東方見聞録』は、マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容の口述を、ピサ出身のイタリア人小説家ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記です。

大探検家とされているマルコ・ポーロは、実は中国に行っておらず、『東方見聞録』は伝聞の寄せ集めだとのイタリアの学者の研究も発表されています。

マルコ・ポーロは、実際には旅行はしておらずペルシャ商人から中国、日本、モンゴル帝国に関する「間接的な物語」を聞いた可能性が高いとの考古学者の見解も報じられています。

考古学者は『東方見聞録』にあるフビライ・ハーンによる1274年の文永の役と1281年の弘安の役に関する記述に矛盾や不正確な点があることも指摘しています。

更にマルコ・ポーロはフビライ・ハーンの宮廷で使者を務めたと主張していますが、現存のモンゴルや中国の古文書にその名は見当たりません。

英国の学者もマルコ・ポーロの中国到達に疑問を投げかけています。

英国の歴史学者フランシス・ウッド(1948~)は著書『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』の中で、当時中国で一般的だった紙、印刷技術、羅針盤、火薬の四大発明、箸、纏足(てんそく)、万里の長城などに関する記述がないことを指摘し、マルコ・ポーロは黒海近辺までしか行っていないとの説を唱えています。

※『マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか』フランシス・ウッド著、粟野真紀子訳、思想社、1997※

更にベネチアの古文書にマルコ・ポーロ一家と中国との直接的な接触を示す記述が全くないことも指摘しています。

またマルコ・ポーロ“非実在説”も存在しています。

1274年、1281年の2度に及ぶ日本のへの侵攻、いわゆる“元寇”の作戦立案にもマルコ・ポーロは関わっていたといわれていますが、不正確な記述が多く年代記的につじつまが合わない点が目立つています。

ナポリ大学の考古学者、ダニーレ・ペトレラによれば、1274年の最初の元寇で日本海に大嵐が起きて元軍の艦隊が滅ぼされたことが記されていますが、1度目と2度目の日本侵攻が史実と逆になっています。

マルコ・ポーロの“非中国滞在説”のきわめつけともいえるのは、モンゴルおよび中国側の史料にいっさいマルコ・ポーロに関する記録が残されていない点とされています。

フビライ・ハンのもとで政治の要職にも就いたマルコ・ポーロがまったく記録に残っていないのはやはり不自然としか言えません。


切手は1952年イタリア発行の「ルコ・ポーロ生誕700年記念切手」で、マルコ・ポーロの肖像の背景に、彼が歩んだベネツィアから大都(北京)までのルートが描かれ、サンマルコ広場の獅子と中国を象徴する龍が左右に描かれています。



マルコポーロ.イタリア.1952


切手は1996年バチカン市国発行の「マルコ・ポーロ中国から帰国700年記念小型シート」で、切手面にはマルコポロ、シート面には彼の旅行したルートが描かれています。



マルコポーロ旅行図.バチカン.1996


切手は1997年モンゴル発行の「モンゴルの皇帝切手」の中の一枚で、フビライ・ハーンが描かれています。


フビライ・ハーン.モンゴル.1997