正岡子規(1867~1902)は、俳人、歌人、国語研究科で俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆など多方面にわたり創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした明治を代表する文学者の一人です。

1894年、日清戦争が起こってから遼東半島に記者として上陸しますが、2日後に帰宅しその帰路に着く途中で吐血して入院します。

以後彼は死ぬまでの7年間結核で苦しむことになります。

結核による喀血を起こしてから「鳴いてから血を吐く」と言われるホトトギスに親近感を覚え、ホトトギスの漢字表記で表した「子規」を自らの俳号としました。

結核に苛まれながらも自伝「病牀六尺」を書きます。

しかし、この本はまったく感傷的でもなく、死に対する恐怖を嘆くでもなく、死へと徐々に近づいていく自分の肉体と精神を即物的に書き表すことで、秀でた人生記録であると高く評価されました。


切手は1951年日本発行の「文化人切手」の中の一枚で、正岡子規の横顔が描かれています。


1951正岡子規.


切手は2002年日本発行の「第二次文化人切手」の中の一枚で、彼の肖像とともに正岡子規直筆の絶筆の俳句「糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな」が描かれています。



正岡子規.2002


切手は2017年日本発行の「子規・漱石生誕150年記念フレーム切手」で、正岡子規と夏目漱石の学生時代の写真等が収められています。


正岡子規と夏目漱石.2017