ホロコーストとは、第二次世界大戦中にナチス党率いるナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺を言います。
今回は難民として逃れてきたユダヤ人を人道的立場から助けた日本人を紹介します。
オスカー・シンドラー(1908~1974)や杉原千畝(1900~1986)はよく知られていますが今から紹介する日本人軍人のことは、あまりにも知られていません。
1938年3月8日、満州西部の満州里駅の対岸に位置するソ連領オトポールにドイツで迫害を受けたユダヤ難民が押し寄せて来ました。
ソ連はユダヤ難民の受け入れを拒否していたので、難民は満州国への入国を希望しますが満州国は日本とドイツの関係を気にして入国ビザの発給を拒否します。
この時のハルビン特務機関長であった樋口季一郎少将(1888~1970)は、ユダヤ協会と交流があったことから、当時の極東ユダヤ人協会の会長アブラハム・カウフマン(1885~1971)は樋口に難民の救済を訴えました。
樋口は「人道上の問題」としてユダヤ難民の受け入れを独断で決め満州鉄道総裁で後の外相松岡洋右(1880~1946)に特別列車の要請をします。
現場では樋口の部下である安江仙弘(最終階級は陸軍大佐)(1888~1950)が奔走しています。
※ユダヤ民族が大切にする聖典の「ゴールデン・ブック」にユダヤ民族が2人の日本人に感謝の意を表するために、特にその判断を下したと考えられるとして、樋口季一郎(上から4番目に「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」)と安江仙弘の名前が記載されています※
我々がよく知っている杉原千畝の命のビザの話は、このオトポール事件の2年以上も後のことなのです。
さらに日本はドイツの反ユダヤ暴動をうけて1938年12月の五相会議(内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣)でユダヤ人を差別しないことを閣議決定しています。
樋口季一郎の独断は大きな問題となり、ドイツからリッペントロップ独外相から、オットー駐日大使を通じて厳重な抗議が行われました。
当時の外務省、陸軍省でも樋口の独断を問題視する声が続出しました。
樋口は関東軍司令部に出頭し、当時関東軍参謀長であった東條英機(1884~1948)と会い以下のように発言しています。
「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」
東條英機は、樋口の言を受けてドイツの抗議に対して「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴しました。
東條は樋口の行為を認め何の処罰もしていません。
ユダヤ民族に貢献した人々の名を刻むゴールデンブックに樋口、安江の両氏は名を連ねていますが、東條英機はユダヤ人との交流がなかったため、記載されなかったと言われています。
戦後の東京裁判ではソ連から樋口を戦犯として引き渡すよう要求がありましたが、これに反対し阻止したのはニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会で、ソ連の要求を断固拒否するよう米国防総省に強く訴えました。
1945年8月9日、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、満州・樺太・千島に侵攻してきますが、この時、樋口は占守島に侵攻したソ連軍に対して自衛の戦いを行うことを決断して善戦し、ソ連軍の北海道占領を阻止しています。
戦後スターリンはその樋口を戦犯に指名しますが、世界ユダヤ協会は、各国のユダヤ人組織を通じて樋口の救援活動を展開し、欧米のユダヤ人資本家はロビー活動を行いソ連の要求を断固拒否するよう米国防総省に強く訴えました。
その結果、マッカーサー元帥はソ連による樋口引き渡し要求を拒否し、身柄を保護しています。
これによって樋口に対する戦犯引渡し要求は立ち消えになりました。
仮に東條英機の名がゴールデンブックに記載されていれば東京裁判はまったく様相が異なったものになってと考えられます。
ニュルンベルク裁判は、ユダヤ人虐殺の責任者を裁く裁判でしたが、東京裁判は、ユダヤ人虐殺の責任者であったナチスの指導者を裁く裁判ではなかったはずです。
にもかかわらず東京裁判は、ユダヤ人を助けた日本の指導者A級戦犯として絞首刑にしましたが、東京裁判はこの点においても大きな間違いを犯したと言わざるを得ません。
東京裁判において東条英機の弁護で、オトポール事件でのユダヤ難民救援について触れなかったのは、弁護側の手落ち言わざるを得ません。
当時の政府決定でユダヤ人を差別しないと定めた国は日本以外には存在していません。
日本は、東京裁判でこのことを主張しなかったのも弁護側の手落ち言わざるを得ません。
数千人のユダヤ人を救い、映画にもなった外交官の杉原千畝は知っていても軍人の樋口季一郎、安江仙弘、東条英機の働きを多くの日本人が知らないのは極めて残念でなりません。
※当時入国ビザなしに上陸できたのは世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口地区だけだった※
犬塚惟重大佐(1890~1965)は、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走しています。
戦後、犬塚に対して樋口、安江と同じように「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」に「偉大なる人道主義者」として称えたいとの調整がなされましたが彼は頑なに固辞した結果、名前が残されることはなかった※
切手は1995年カナダ発行の「ホロコースト終焉50周年記念切手」で、収容所の囚人の写真、剥ぎ取られた刑務所の服の見本、そして彼らがユダヤ人として識別するために強制的に身に着けさせられていたダビデの黄色い星が描かれています。
切手は1995年イスラエル発行の「第二次世界大戦終結40周年切手」で、収容所の解放が描かれています。
安江仙弘陸軍大佐
犬塚惟重大佐
犬塚惟重大佐
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