アメリカの黒人医師チャールズ・リチャード・ドリュー(1904~50)は血液の保存は全血よりも血漿が良いことを証明し、第2次世界大戦時に大量の血漿を製造・保存しイギリス軍を助けますが、このことが後に血液銀行の発展へと繋がります。
血漿貯蔵の技術を開拓したアフリカ系アメリカ人の外科医であるドリューは、最初のアメリカ赤十字血液銀行の責任者でもありました。
アメリカ陸軍が白人以外の供血者からの血液を使用しないとの決定を行ったため彼は、アメリカ赤十字血液銀行の責任者を僅か3ケ月で辞任します。
1950年、チャールズ・ドリューは、ノースカロライナ州での自動車事故でわずか46歳の若さで亡くなりました。
彼がアフリカ系アメリカ人であったことからノースカロライナ州の病院での輸血を拒否されたから死亡したとの噂が流れましたが、これは真実ではありませんでした。
それほど当時の米国では黒人差別が激しかったということです。
彼の有名な言葉に、"私は血であり、血は私です"があります。
1947年エドウイン・コーン(1891~ 1953)は 、pH、 イオン強度、エタノール濃度、タンパク濃度、温度の五つの変数を調整することによつて血漿タンパクを分画する方法、コーンのエタノール分画法を発表します。
血漿タンパクからアルブミン・γ―グロブリンなどを初めて分画し、現在の血漿分画製剤製造の基礎を確立したのはコーンその人です。
また、血漿分画製剤の開発にウィルヘルム・チセリウス(1902~71)の電気泳動技術が大きく貢献したことも忘れてはなりません。
チセリウスは、1948年に電気泳動の研究等でノーベル化学賞を受賞しています。
血漿分画製剤の製造法が確立され、大量生産に着手する前に終戦を迎えた結果、血漿分画製剤は大手術施行患者や病人の治療に大きく貢献することになります。
わが国における血漿分画製剤の製造は、1953年に㈱ミドリ十字の内藤良一博士(1906~82)により免疫グロブリンが製造されたのが最初です。
一時期わが国では血漿分画製剤の使い過ぎが指摘され使用法および使用量が見直され現在は適切な使用がなされています。
血漿分画製剤は、人の血液から製造される限りは当然適正に使用されるべきです。
切手は1981年米国発行の「偉人切手」の中の一枚で、チャールズ・ドリューの肖像が描かれています。
切手は1980年パプアニューギニア発行の「赤十字血液銀行切手」の中の一枚で、血漿から分離されるフィブリノーゲン・アルブミン・S.P.P.S(stable plasma protein solution:安定血漿蛋白溶液)とパプア・ニューギニアにおけるABO式血液型の出現頻度が描かれています。
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