12世紀には理髪外科医と呼ばれる床屋によって公衆浴場で入浴と同時に潟血療法が盛んに行われるようになりました。
通常1回に10オンス(283m) 血液を抜いた記録がありますが、ひどい場合にはl日に3リットルも採血したとの記録が見られます。
15世紀中期にはドイツのグーテンベルグ(1400?~ 68?)により活版印刷術が発明されると、「潟血カレンダー」が印刷され、これに基づいて保健衛生のために定期的に潟血が盛んに行われるようになっています。
西欧では潟血療法は19世紀中期まであらゆる病気の治療に行われ、潟血によって流された血液は戦争によつて流された血液より多いとさえ言われています。
1826年から36年にかけてヨーロッパで大流行したコレラの治療法ももつぱら潟血と昇汞の投与であつた。
※昇汞とは塩素と水銀の化合物の塩化第二水銀のことで、猛毒ですが昇汞水、昇汞錠として消毒剤、防腐剤などに用いる※
オランダのヒポクラテスと称されたヘルマン・ブールハーフェ(1668~1738)は 、肺結核は異常な血液が肺に入つたために起こるとし治療に潟血を積極的に行い、フランスのフランソワ・ブルッセ(1772~1836)にいたつてはヒルによる潟血理論を発表しヒル潟血の流行のきつかけを作りました。
このブルッセの理論により1833年には4,150万匹のヒルがパリに輸入された記録があります。
潟血療法一辺倒な時代にあつてこれに批判的的な人物もいました。
なかでも代表的な人物は「生化学の建設者」と称されるヤン・パブティスタ・ファン・ヘルモント(1579~1644)は 、医学は血塗られた犠牲によつて彩られてきた』と潟血療法を痛烈に批判しています。
日本に目を向けてみますと『日本書記』に允恭天皇 (5世紀中葉:第19代天皇)の病気治療に潟血を行い、効果ありとの記録が見られます。
平安時代から江戸時代にかけて民間では病気の治療法のひとつとして潟血療法が行われていていましたが、西欧で行われていたような無差別な潟血療法でありません。
切手は1938年オランダ発行の「ヘルマン・ブールハーフェ200年記念切手」で、ヘルマン・ブールハーフェの肖像が描かれています。
切手は1972年フランス発行の「赤十字切手」で、ブルッセの肖像が描かれています。
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