日本の細菌学者、北里柴三郎(1853~1931)は、パンデミックが起こった1894年に香港へ渡り、ペスト菌を発見した結果有効な予防法、消毒法が実施され、治療法の研究も開始することが出来まし。
ペスト菌は1894年6月14日、流行下の香港で北里柴三郎が発見し、滞在中にまとめた論文が英国の著名な医学誌ランセットに掲載されます。
そして、翌週、同じく香港でフランスのアレクサンドル・イエルサン(1863―1943)も発見し、彼の論文はフランスのパスツール研究所年報に掲載されることになります。
北里は日本に持ち帰った分株菌をさらに詳しく調べ、結果を発表することになり、その性質の一部はエルサンや他の学者たちのものと違っていたため、「北里が主張する菌はペストの病原菌ではない」とする論文が出され、真偽が問わてしまいます。
しかし、幸いなことに北里はもう一つの分株菌をドイツのコッホ研究所に送っており、それを検証するとまぎれもなくエルサンと同一の菌だったことが認められます。
そして1897年、ベニスで開催された万国衛生会議でその結果は報告され、二人が共に発見者と認められることになります。
日本で行った北里の研究結果に対する論争はさらに続き、1967年にペスト菌が属する細菌群が再分類されることになり、新しい学名は「エルシニア・ペスティス」とされ、エルサンの名前だけが付けられてしまう結果となります。
この経緯を憂いたカリフォルニアのふたりの研究者は、北里の発見の真実は明らかにされるべきだと考え、関係する膨大な論文や記録、当時の研究環境なども含め精査し、徹底的に分析を行います。
発見の真偽に焦点を当てた調査の結論は、「北里は確かに香港でペスト菌を研究し、論文の大部分は的確に特徴を記載しており、彼にもその発見の栄誉を与えるに十分である」というものでした。
この総括的論文は、1976年、アメリカ微生物学会の機関誌に発表され、北里の発見の事実をめぐる論争に終止符が打たれることになります。
二人の挑戦者が成し遂げたその病原菌の発見は、世界の医学史に残る偉業であり、、学名にこそ北里の名を残していませんが、ペスト菌最初の発見者が日本人の北里柴三郎だったことは、疑う余地もない事実なのです。
その後ペスト菌は「キタサト・エルサン菌」とも呼ばれるようになります。
切手は2013年フランス発行の「フランス・ベトナムジョイント切手」の中の1枚で、イェルサンの肖像が描かれています。
はがきは2003年日本・熊本県発行の「北里柴三郎生誕150年エコーはがき」で、若き日の北里柴三郎と彼の生家が描かれています。
2024年をめどに発行される新千円札には、北里柴三郎が描かれています。
山崎光夫著 ドンネルの男・北里柴三郎 上下(東洋経済新報社2003年)を読まれると北里柴三郎の業績と人柄がよく理解できます。
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